2020.11.24
~印刷業界におけるDXの本質とこれからを生きるための2つの方法
かつて日本の高度経済成長期を支えた産業の多くは、現在、低迷の一途をたどっている。日本が再び、経済面で輝きを取り戻すには、これまでの成功体験や既存のビジネスモデルにこだわることなく、デジタル技術を大胆に活用し、新たな企業価値を創出していく必要がある。日本の中心を占める製造業の一翼を担う印刷業界は、その岐路に立ちながらも向かう先を定められずにいるといえるだろう。株式会社日本HP経営企画本部マーケティング推進部の甲斐博一部長に、印刷業がこれから行うべき変革とその未来について話を聞いた。
昨今、さまざまな産業においてDX(デジタルトランスフォーメーション)を叫ぶ声は日に日に大きくなり、国策の一つとして話題を独占している。また、どこを向いてもあふれるDXという言葉とは裏腹にうまく実践されている企業はまだ多くはないようだ。印刷業界もその例外ではないが、「DXをどう捉えていいのか分からないという印刷会社が大半を占める」と、日本HPの甲斐博一氏は語る。
そして、印刷業界が真のDXを果たし、再び市場を盛り上げるには 「サービス業態への転換が鍵を握る」と言う甲斐氏は、その理由を日本の製造業を例に次のように説明する。
「成熟化する産業の収益構造を表すモデル『スマイルカーブ』は、バリューチェーンにおける付加価値をグラフ化したもので、製造業を例にとると、川上(上流工程)の設計と川下(下流工程)の顧客満足の付加価値が高く、中間工程である製造部分の付加価値はコモディティ化とともに低くなっていくという考え方を示しています。これらを線で結ぶと、両端が上がり、中央が下がるため、笑顔(スマイル)に似ていることからスマイルカーブと呼ばれ、産業が発展、成熟化していく過程で、このようなカーブにおおよそ近づいていくということを表しています」
着目すべき点は、やはり中間工程の組み立てと製造の段階だ。この過程では、グローバル化によるコスト競争が進み、利益を出しにくい状況となるのだが、これは家電などのメーカーをみると分かりやすく、川上と川下は利益が相対的に大きいのに対して、中間工程は付加価値の低下とともに利益が少なくなる。新しい製造技術をもって市場が形成され、その市場が発展していくことはその業界にとって良いことだが、いずれその技術はコモディティ化され、そこからはグローバルでのコスト競争にさらされることで利益が出せなくなり、規模を確保できないところは淘汰されていくのは必然である。
「典型的な例が、携帯音楽プレーヤーの『iPod』。アップル社と日本企業の差が顕著に現れました。この分野では、ソニーの『ウォークマン』が1980年代に全世界を凌駕した状況が、2000年代に入り、大きく変わりました。アップルがやったことはハードウエアを作るだけではなく、音楽配信という川下のサービスを創った点。アップルは組み立て・製造というスマイルカーブの中間工程だけをやっていても、市場の成熟化が進むにつれて利益が上がらないことを理解していました。そこで、メディアプレーヤー『iTunes』アプリを開発し、音楽業界に進出したのです。この点が非常に重要です。その一方で、ソニーはミュージックレーベルを持っているにもかかわらず(または持っていたからこそ)、それができなかった。この2社を比較すると、やはりアップルは世の中の変化をとらえたビジネスが上手なことが分かります」
こうした状況は他の大手電機メーカーなどもおよそ同じであり、いまだハードウエアの製造という中間工程で競っているために、日本の製造業全体が不調の波から抜け出せていない。
「顧客満足重視のサービスを企画、設計、提供したり(川下)や仕様を開示しながら企画・設計(川上)へシフトチェンジする方法もありましたが、過去の成功例を捨てられずに中間工程で勝負を続けようとしたことが製造業の低迷の一因だと思います。テレビ業界なども分かりやすい例ですね。前述のソニーはプレイステーションなどハードウエアを残しながらも金融サービスなどの新しい事業を拡大させ、見事にポートフォリオ経営を実践されることで現在は変容を遂げていますが、今も日本の多くの企業はこのような変容を遂げられずに過去のビジネスモデルの延長線上で低迷を続けているのです」
これを印刷業界に当てはめてみると、これまで印刷会社が担ってきた中間工程の「製造=刷る」ことで利益を上げるビジネスモデルを続けているだけでは、今後の発展は難しいことが予想される。市場は既に成熟化し、コスト競争が激しいため、仮に売上げは何とか維持できたとしても利益を大幅に減らしてしまうからだ。もちろんここで生きていく道もあとで解説するが、まだまだこれまでの印刷方式については減少傾向が続いていくであろうことも今後の大きな不安材料である。甲斐氏は、こうした現状から抜け出し、印刷業界が歩んでいくべき道について、次のように語る。
「この状況を脱却していく方法は幾つか挙げられますが、スマイルカーブでいう川上を選択した場合は、ハードウエアなどの設計や新しいインクの開発、印刷技術の研究開発などが主な分野になると思います。印刷機の設計や企画をしてメーカーに作らせるといったハードウエアそのものの仕事やそれと呼応するようなインクの研究、紙などの素材を探究して、安価でリサイクルできるプラスチックなどの新しい印刷素材を開発していく、または世の中にない印刷物を企画開発する手法もあるかもしれません。ただ、いずれにしても取り組むには非常にハードルが高い。その点、川下に進めば、今の経営リソースに変更を加えながらもある程度使えますし、お客さまとの関係も維持できる。やはり、印刷業界もサービス業態へ向けて変化していくことが、大きな選択肢だと思います」
しかし、それを実践するには、顧客接点を変化させながらビジネスモデルを大きく変えていかなければばらない。顧客の課題解決のためのコンサルティングやマーケティング機能も強化し、対顧客への存在価値を変える必要がある。
「川上と川下、どちらかに行くことを真剣に考え抜いたとき、多くの印刷会社が川下に行く選択肢をするのではないかと想像しています。『中間の印刷、製造でもまだ利益を得られる』という感覚も残っていると思いますが、ここはこれからまだまだ少なくなるパイを取り合いながらさらに深いレッドオーシャンへとなっていくことは避けられません。もちろん、その時にはここでの戦い方をより洗練させていくことが重要です。どれだけ投資をし、その後のコストを人件費も含めてどれだけ抑えていけるか。もちろん人件費の高い日本でもテクノロジーを用いて工夫をすれば可能性があると思います。現在のビジネスモデルを今後も続けるなら、厳しい戦いの中で省力化、自動化、ネットワーキング、つまりテクノロジーの活用力がキーワードになります。
中間で勝負するなら、全ての工程においてデジタルテクノロジーをいち早くとり入れていくということが差別化につながります。まずは、省力化して生産効率を上げていくという話が第一段階、AIなどを使った自動化によってさらに生産効率を上げていくアプローチが第二段階です。また、別の発想では、ネットワーク上に印刷機をつなげ、MISとつなぎながら適正な生産をしていく、さらにそれを複数企業にわたってやっていくという考え方もあると思います。いずれにしろ需要の増加は見込めないという前提でグローバルを含めた厳しい戦いを続けていく覚悟を決めなければなりません。デジタル活用力を思い切り上げ、省力化や自動化、そしてネットワークを使い、人でのオペレーションを前提とせずに、できるだけ機械がこなせるようなオペレーションモデルを再構築していくことになります。もちろんその中で残っていく人に求められる資質もこれまでと違い、ITの資質を持ち、インフラを構築できる人たちが必要になります。これが私の考える印刷業界のDXバージョンAです」
デジタルテクノロジーを活用し印刷効率を上げていくDXバーションAに対して、印刷業界がサービス業態へ変革するというのがDXバージョンB。この方法について甲斐氏は次のように述べる。
「印刷業界におけるサービス業態化がもたらすものを考えていくと、それはつまりスマイルカーブにおける川下へ向かうことになります。サービス業、しかもこれからの時代におけるサービス業の存在価値は絶対的な顧客満足を追求し提供し続けていくことをおいて他にはありません。またターゲットとするエンドユーザーがどういったお客さまなのかどうかは別にして最終消費者の生活はどんな層であれデジタルを中心に変化しています。
つまり、形はどうであれ、デジタル系のサービスを提供していなければ真の意味での顧客満足は得られません。また、デジタル系サービスの特長はお客さまの属性だけでなく、行動や購買に関する情報がデータとして残っていくというところにもあります。そしてそれをお客さまからのフィードバックとして捉え、どのように活用していくかが成否を握ります。
一方で、全ての人の生活はデジタルだけに留まりません。いくら時代の変化とともにスマホやPCのスクリーンに向き合う時間が増えているとはいえ、起きている全ての時間がそこにあるわけではないのです。このことに注目するとお客さま接点をデジタルとフィジカルの両方で捉えていくことが顧客満足への必須命題になっていくことが明らかになります。多くの場合は接点頻度をデジタルで高めた上でその行動や購買からお客さまの趣味嗜好を把握しながら、フィジカル接点ではそれをベースにお客さまごとにコンテキストを変えて接していくことが、これからのサービス業の在り方となっていくわけです。
印刷会社が歴史的に持っている強みはやはりフィジカルサービス。データを有効活用したパーソナライゼーションやスピード対応など、デジタル技術を組み合わせたフィジカルなサービス生成に加え、紙やフィルムといった素材に対してデジタルでは到底できない人の心を動かす表現を物理的に具現化したり、それがさらにデータから生み出された情報とマッチするとこの上なくお客さまに感動という幸せを与えることができます。いずれにしても、デジタルとフィジカルを組み合わせた素敵な体験を設計しながら、そのビジネスモデルを再設計することにより、お客さまとの関係性を変えていくことが重要なのです。これこそが、もう一つのDX、バージョンBの考え方です」
「今回、私が、DXをどう捉えるかに関して印刷会社の皆さまに伝えたかったのは、『2種類のDXが存在する』ということであり、いかに早いスピードでそのどちらか、あるいは両方を実践することが未来への道をつくる方法論であること」と語る甲斐氏は、今後の印刷業界のあるべき姿について、さらに付け加える。
「DXはバージョンAで挑むも良いし、バージョンBで挑むもいい、両方というのがベストかもしれません。バージョンAというのは、人を減らして、生産性を上げていき、最終的には残った人の給料を上げていくという考え方です。そうでなければ、デジタル化しても利益が上がらず従業員の満足にはつながりません。DXのバージョンAと、バージョンBのどちらか、もしくはその両方をしっかり選択して挑戦していく。このことが印刷業界、特に中小企業の方々のこれからのチャレンジだと思っています。それが実現すると、生産性が上がり、企業価値が上がっていくでしょう。その結果として、お客さまと従業員、ステークホルダー全てがハッピーになる。このような状況が生まれてくると信じています」
そして、ここもさらに重要なポイントとなるのだが、DXを実践しながらサービス業態への変革を促進するには、組織全体の改革が必要となる。
これまでの印刷業界は、高品質の印刷物を約束通りの納期に納品することを重視していたため、組織も人もモノを作り、売ることに最適化されていた。当然、対価は印刷物そのものにあるため、その質の追求などが重要な評価基準になる。これに対し前述の通り、サービス業は物ではなくサービスや体験提供を通して顧客満足を追求し、その結果、対価を得ることになるため、必然的に顧客満足を追求する組織と人に大きく変えなければならない。これは決して容易なことではないが、これが全ての出発点になる。
「サービス業態へ転換するには、企業全体でのキャッシュフローを改善して、新たな需要を開拓していくことが大切です。言い換えれば日々の稼ぐ力を付けながら、継続して投資を続けていくことになります。幸いにして現在のデジタルサービスはクラウドが中心です。つまり、これまでのオンプロミス型のITシステム構築には最初に莫大な設備投資が必要でしたが、今はクラウドでかつサブスクリプションが前提になったことで最初の投資は少なくて済む。このことは特に中小企業にとって大きなメリットのある変化です。繰り返しますが、サービス業への変容は、目指すべき頂点がモノから顧客満足にとって変わるという意味であり、それを実現するには人と組織、そして経営の変革が必要であることを意味します。こうして考えていくと、DXはやらなければならないことではあるものの一過性の手段にしかすぎません。本当にやるべきことは、人と組織の大変革であり、つまり、これは『コーポレートトランスフォーメーション=CX』なのです。
とはいえ、一気に変えることはそれほど簡単ではないことも理解しています。であれば、変革を実行していく組織と既存ビジネスを進化させていく組織を両方持ち合わせながら、経営陣がしっかりその両方を違う軸で評価しながらコミットし、サポートしていく。2つの性質の異なる組織運営は簡単ではありませんが、それができればリスクは抑えられます。より現実的な実践計画を立てて、大胆に実行していくことを印刷業界に伝えたいと思っています。企業は生産性を改善し、さらに人もビジネスも成長させることが使命です。この業界で働く人々の賃金を上げるため、そして業界全体とそこに関わる人たちが幸せになるために、このことをぜひ断行してもらいたいと心から願っています。もちろん、HPは皆さまの横で伴走します」
【本記事は JBpress が制作しました】