2022.08.26
左から。
株式会社グーフ CEO 岡本 幸憲 氏
株式会社 日本HP 経営企画本部 部長 甲斐 博一
今、信じがたいスピードで世界は変化している。デジタルテクノロジーの発展によって、これからの10年間で前世紀の100年間に匹敵するほどの大きな変化が起きるかもしれない。革新的なテクノロジーの台頭は、時に創造と共に古きものの破壊をももたらす。市場の縮小という漠然とした不安を頂きながらも、目の前の問題解決を優先し、未来に真剣に向き合うことを後回しにしていれば、突如として不測の事態に見舞われるかもしれない。脅威に備え、それを機会に変えながら、産業や変革をリードしていくために、私たちは何をすべきだろうか。印刷業界に明るい未来があるとしたら、その条件は?――印刷業界の市場予測を振り返り、印刷の歴史を辿りながら、今後待ち受ける脅威や機会にどう向き合うべきか、株式会社グーフ岡本氏と日本HP甲斐が対談で印刷業界の未来を探っていく。
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岡本氏(以下、岡本):「約10年前に立てられた2020年の市場規模予測は、マイナス15%成長だったのに対し、実際は2000年の61%の水準、つまり約40%も減少していることになります。これは、業界の予測が大きく外れたことを意味し、実質とのギャップが大きいと言わざるを得ません。この大きなギャップは、この10年~20年のデジタル化の進展が、市場にどのような影響をもたらし、価値変容を起こすのかという業界内の読みが甘かったことが一因でしょう」
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甲斐:「市場規模が半分近くも縮小してしまうというのはなかなかない状況ですよね。このデータは、日本の2大印刷会社である凸版印刷と大日本印刷の売上合計が市場半分を占めていると思いますが、この両社は、印刷事業が減少する中、印刷以外の事業領域を確実に伸ばしています。対して、他の印刷会社は、どのくらい業態変容ができているのかが気になります。これだけ産業全体が縮小すると、持ちこたえられなくなる企業も多いはずです。
当時の予測の根拠はこのデータだけではわかりませんが、少なくとも2000年からの20年間で15%減になるということは予測されていたということです。長期的なマイナス予測は、産業が衰退に向かうことを意味しますから、マイナス15%ともなれば業界全体としての変革は避けられません。予測を立てたのが約10年前だとすると、この10年間、変化へはどのように対応してきたのでしょうか」
岡本:「もちろん、業界内でも需要下降の推測のもと、市場縮小のイメージは持っていましたし、対応策なども検討されていました。しかし、何が新しい脅威なのか、どこが競合になるのか、それに対して何をするべきなのかという具体的な議論ができていなかったように思います。これから10年後、20年後の予測を立てた時、印刷業界の狭い視野で見ていれば、また同じような読みの甘さが出るかもしれません」
甲斐:「内部環境には目を向けていたものの、外部環境分析が十分にできてきなかったのかもしれませんね。国内GDPがおおよそフラット、もしくはマイナス成長が続く状況を前提に考えたうえで、それ以上の成長を遂げる産業があるとしたら、縮小してしまう業界があるのはしょうがないことです。ただ、マイナス予測が立てられた時点で変革への取り組みは必須だと思います」
岡本:「業界の中でも、業態変革という言葉はよく出ていました。しかし、業界団体の中で業態変革の議論になっても、具体的なところまで踏み込めていないのが現状です。日本の印刷産業は、プロフェッショナルな産業であると同時に、受託製造型ビジネスであるため、どうしても受け身になりがちです。変革が必要とされる中、お客様との接点を通して培われた知識やアイデアは豊富でも、それを能動的にサービスに転換しきれていない。
また、業界変革と言われてこの20年以上、業界全体での変革ではなく、印刷会社の個々の取り組みに留まっているように感じます。業界全体として、印刷という概念を『リデザイン』し、再提案ができているかというと、発注者側の『印刷』という固定概念は、残念ながら20年以上変わっていません。このデータは出荷金額だと思いますが、出荷数量の推移を見ると若干異なるカーブを描いており、実は単価の低下が及ぼす影響が大きいことがわかります」
甲斐:「単価を引き下げることが取り組みの中核になっていたということですね」
岡本:「その通りです。単価を下げて生き延びる時間があるから、変革に踏み込むまで追い込まれていない。デジタル化に向けても各社が模索しながら動いてはいるのですが、業界全体としてサービス対価に対する統一した意見を出せていないと感じます。この点は、欧米と日本の圧倒的な違いで、欧米では市場全体に対してデジタルの後押しをして、デジタルのバリューを市場全体が正しくアウトプットできるように導いています。発注者と印刷会社の関係性も日本のそれとは違います。数字を見ていると、そこに大きな違いがあるように感じます」
甲斐:「国の文化や特性といった違いは大きいですね。私は長らくIT業界にいますが、市場規模1~2%の減少やフラットはあっても、10%の減少は未だ経験したことがありません。仮に15%減少ともなれば、大リストラが始まり、業界を超えた転職活動も活発になるでしょう。成長する分野があれば、衰退する分野も生まれるのは自然の流れですが、それをどう捉えるかは、産業の文化や価値観なども影響するのかもしれませんね」
岡本:「日本全体がこの何十年か、みんなでゆっくりと貧しくなっていくというような流れの中、隣も同じだからしょうがないと、どこか諦めの空気があります。IT業界は欧米的価値観、文化の中で成熟されていますから、そういった考えはないですよね。印刷業界も、時代の流れで縮小するのはしょうがないと諦めるのではなく、縮小する事業の代わりに何をするべきか、現状を打破するために危機感を持って転換しなければいけないと思います」
岡本:「もうひとつ、日本には『会社は常に黒字で成長し続けなければいけない』という成長神話があります。そして、日本は過去に大きな成功体験をしている。それは、印刷業界が長らく情報を伝達するというコミュニケーションの中核を担い、文化を支える基幹産業であったという、大きな成功体験です。右肩上がりに成長を続けることが大前提だった人たちが、いざ産業の衰退に直面した時、うまく方向転換ができていないのだと感じます。本来ならば、現在の日本のGDPや市場規模を鑑みて、適正な印刷の量を見極め、『ピボッティング』つまり価値変容のための戦略転換をしなければなりません」
甲斐:「グラフを見ると、1960年代、70年代の急成長があって、90年代にピークがありますね。ピークの10年近くは、外部環境も良く、追い風となっていたのがわかりますし、それだけ印刷が必要とされていたということも理解できます」
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岡本:「一般的にいうデジタル化は、1990年代半ばから活発になり、そこを境目に、世の中全体が動き出しています。外部要因や革新的なテクノロジーなど、何らかの要因によってある時世の中が動き出す。デジタルが持つ効力、及ぼす影響、起こし得る連鎖、そこに紙のニーズや価値を低減させる要素はどれくらいあるのか、そういう議論ができなかったので、デジタルがもたらすインパクトを過小評価してしまったのだと感じます」
甲斐:「私たちの世代のマネジメント層は、経済成長と共に産業の成長を経験していますが、かつてこれだけの下降を経験したことはありませんから判断が難しいのも当然です。自分が印刷業界の立場にいても、同じだったでしょう。だからこそ、この先は、アップもダウンも経験のある重要な世代として、様々な年代の人たちと共に、次の判断を見極めることが大切なのかもしれません」
岡本:「日本の印刷会社の多くは世襲ですから、印刷会社の中には、急成長を経験した親世代と、下降しか経験していない子世代がいるわけです。異なる経験を持つ世代で議論する際、まず必要なのは、これから先の適正なマーケットサイズを見極めることです。それを分母と考えて、何が必要で、自社の強みをどう活かし、どのような方策をマッピングすべきかを考える。今の5兆円という市場規模が、再び9兆円に戻ることはまずないでしょう。ですが、個々のニーズに合わせた「マスカスタマイゼーション」に踏み出せば、利益の伸びは期待できます。もしくは、付帯業務や周辺サービスで請求項目を増やすということも考えられます。印刷という手段を提供するプロフェッショナルとして、どのように付加価値を高めていけるかを導き出すことです」
岡本:「イノベーションは未来のため、成長のためにあります。今いるところに満足せず、変化していくからこそ、そこにビジネスチャンスがある。その考えが未来思考の軸ですから、躊躇せずにアイデアをぶつけること、市場の声を的確に捉えて、ビジネスやサービスに転換できることが重要です。変化に合わせてピボットできる(変われる)企業は伸びると感じます。例えば、アップルは、コンピューターの開発から始まり、iPodやiPhoneといったパーソナルデバイスを生み出し、OS、ソフトウェア、コンテンツ、サブスクリプション、クラウドサービスと、常に変化し続けることで、何らかのビジネス要素が消滅しても困らないようにしている。自社の強みを主軸に構え、既存の価値を変化させたり、価値を追加して組み合わせたりするためにピボットすることが大切です。特に日本は、自社の事業範囲の中でしかイノベーションを起こせないと思いがちですが、それは間違いです」
甲斐:「アントレプレナーシップ(起業家精神)とイノベーション(革新)の本質について少し考えてみます。例えば、アマゾンのジェフ・ベゾス氏や、フェイスブック(Meta)のマーク・ザッカーバーグ氏など、ゼロから事業を起こすアントレプレナーは、何か課題があってそれを愚直に解決しようと行動を起こしています。課題解決にまっしぐらに突き進み、マネタイズ(収益化)がうまければビジネスは成功します。一方、初めから収益だけを狙って起業する人はあまり成功しません。時代によって課題は変わり、特に今は環境問題、少子高齢化、経済格差といった地球規模の課題が多くありますが、アントレプレナーは、課題を解決することで、より豊かで幸せな社会や生活を実現しようと熱望しながら行動し、自分の考えや価値観が人と違っていようと、志を貫く熱意があります。テスラのイーロン・マスク氏は、人口爆発という社会課題を解決するために、誰から何を言われようと火星への移住計画を本気で見据え、わずかな可能性に賭けてロケットを飛ばして何度も失敗していますが、まさに、現代のアントレプレナーだといえるでしょう。
一方、イノベーションは『技術革新』などと訳され、全く新しいものだと考えられがちですが、実は既存のもの同士の『新しい組み合わせ』であることは、もう私が説明するまでもありません。岡本さんのおっしゃる『ピボット』は、自社の強みを基軸において、その強みと新しく何を組み合わせるかというイノベーション思考からもアプローチが可能です。アントレプレナーシップは、いわゆるパーパス(存在意義)が始点ですから、この2つの視点を持って思考すると良いのかもしれません」
岡本:「物事の視点を未来に置いてみることも大切です。未来に向けてもっと豊かになりたい、もっと早く寝たい、もっと家族と一緒に時間を過ごしたい、目指すものは何でもいいんです。そういった課題を乗り越えて、理想を実現するためにイノベーションを起こす。イノベーションは永遠と繰り返されるもので、あるものを発明しても、3年後にはまた新しいアイデアが出てきます。そう考えると、イノベーションはひとつのプロセスであり通過点です。例えば、Googleに人工知能を開発する優れたチームがあるとして、その人たちは自分たちのことをイノベーターだとは思っていないかもしれません。イノベーションは、起こそうと思って起こすものではなく、これを実現させたい、課題を解決したい、誰かの助けになりたい、もっと豊かに、便利に、楽しくしたい、というようなモチベーションがあって、地道に取り組んだ結果生まれるものだからです」
甲斐:「景気は一定の周期で循環し、50年周期で上昇・下降の波があるという説があります。この50年の間に、何かしらイノベーションが起きているわけですが、今後はその波がどんどん速くなっていく可能性がありますね」
岡本:「もちろん持って生まれた要素もあるとは思いますが、環境的な要素や思考が大きいように思います。例えば、好奇心が旺盛でアイデアが豊富な人、こうあるべきだという確固たる信念を持つ人たちは、ともすれば学校教育という枠の中では外れ者のようになってしまう場合も多い。しかし、ひとたびそれを伸ばせる出会いや環境があれば、常識という形式的な枠組を飛び越えて、新しいことを生み出す結果につながります」
甲斐:「なるほど。私はやはりパッションではないかと思います。パッションは教育だけで教えられるものではありません。また、それは内なるものなので、パッションがある、ないという定義は難しいものです。ですが、情熱を持つ人はどの業界にも必ずいますし、また伝播が可能なものです。業界全体の行く末を考えたときに、そのパッションをしっかりとすくい上げ、拡散させていけるかどうかがポイントだと思います」
岡本:「利他的な思考や行動ができることも大切ですよね。自分だけが儲かりたい、自分だけが良ければいいなら、コミュニティやソサイエティは必要ありません。起業家は、解決したい社会課題があり、アイデアがあり、皆が幸せになるためにはどうしたら良いかという愛とパッション、勇気がなければ務まりません」
岡本:「印刷業界の中に、デジタルを取り入れていくことを目的として戦ってきましたが、ひとつだけ、自分がぶれたらダメだという気持ちがあったことは確かです。26年前に日本に帰って来た時、『印刷ビジネスはまだまだいけるぞ』という感覚の人が大勢いました。そんな人たちに、ITやインターネットの話をし、未来はデジタルなんだと話しては、別次元の話のように思われていました。それでも、本質を研ぎ澄ませ、手段や方法を変えても、目的は絶対に変えてはいけないと思ったのです。ソフトウェアの力を信じ、ソフトウェアの価値を印刷業界の中に入れていくこと、インターネットを必ず使うこと、その2つを決めたのが25年前です。恐らく、それだけを決めてぶれなかったから、今こうして生き残っていますし、スポンサーやHPのようなメーカーなど、共感できる相手にも出会えたのだと思います。そういった仲間が多くなればなるほど、自分が信じる核となるエコシステムだけでビジネスが回るようにもなりました。失敗を恐れずにイノベーションできたのは、運と縁を待つ価値観があったからかもしれません」
甲斐:「やはり、パッションですね。」
このように、長期的な視野を持ち、まず自分の目指す「目的地」を描いて、そこに到達するための計画を策定し、実行する方法は「フューチャーバック思考」といわれている。岡本氏は、25年も前からまさにそれを実践していた。そして、このような未来思考で、既存の「印刷」という概念に、ソフトウェアやインターネットというテクノロジーを組み合わせ、印刷業界にイノベーションを起こしたのである。
後編では、「印刷業界の歴史を振り返り、未来を考える」「人的資本経営と動的な組織編成」「これからの印刷業界」を題材に、歴史・テクノロジー・人と3つの視点で印刷業界の未来について語ります。
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